釣り、癒し、意味。

パパ先制打

2010年02月22日 06:48

みなさん今晩おはようございます。
Howth釣行の第5話です。

非常に個人的な、いわば吐露、自己確認です。
あまり楽しい文章ではありません。ごめんなさい。

第1話 > あっちの岬は釣~れるぞぅ
第2話 > 道すがら。
第3話 > 下見十分
第4話 > ここは観光地(ひそかな決意)



防波堤と、帰りの車で考えました。

Colliemoreでも坊主を繰り返し、
勇んでいったHowthでも坊主と相成った以上、
これは純粋に冬の釣り方を知らない+腕が悪いと認めざるをえない。



幼いころから頭や手が器用な私は、
個人としての能力に、幸いにも、恵まれたため、
挑戦したことは大抵うまくやり遂げてしまうタイプでした。

失敗をあまり経験していない人間にありがちな、
全能感に支えられたパーフェクショニストでしたので、
あまりうまく行かないことはすぐそれと悟り、とっとと止めてしまうたちでした。

一方で、たとえうまく行かなくても、
途中結果として、成功や正の評価が含まれておれば興味を失わず、
または、純粋に興味を失ったり、理由なき負の評価や無評価を受けない限り、
楽しく、しかし執拗に色々試すことでそれを乗り越えることができるタイプでした。
楽しいことはとことんやりとげる。
出来なかったことはつまらないことであるから忘れる。

私は楽しんでいるときの集中力が、人より深かったのでしょう。
短時間で物事を成し遂げる私は、短時間で見切りをつける人でもあります。
熱しやすく冷めやすいとよく言われました。

楽しいうちは、失敗を気にしない。
つまらなくなったら、失敗するのはかっこ悪いのでとっととやめる、
と言いかえることもできるでしょう。

本当に楽しいことを見つけると、多少の失敗は気にも留めず、
ぶちぶち言いながらも、インターバルをはさみつつも、長い時間をかける人でもあります。
努力の人、我慢強い、活動の息が長いと言われたことも、あるのです。
見方によって、ずいぶん違う評価が生まれるものです。


続けることで達成し、結果、楽しくなるという図式はありませんでした。
根っこにあるのは楽しんでいるかどうか。
楽しいから続ける、結果、達成できる。
私の弟などは前者を知る人間ですので、人間として私よりも堅牢です。


そんなふうなので、挫折は興味を失うことに置き換わり、
また実際そういうことがほとんどでしたから、
あまり悔しいと思ったこともなく、
うまく行く別のことにどんどん挑戦してゆけばそれでうまく生きれました。



そうして、私は集団の中で生きる能力には恵まれませんでした。

自分さえ興味を失わなければ失敗もないわけですから、
どちらかといえば一人の世界にこもり、
周囲と共同で行う作業は避け、また、共同で作業をしない分野へ進み、
そうすることで逆に自分の良い部分を社会で発揮してきました。

仕事も個人としての能力が生かされる仕事をし、
胸を晴れる業績も残してきたと思います。

団体で何かをなしとげることには苦手意識があります。
とはいっても、実際にはそういったこともこなしてきましたから、
できない訳ではないようです。

できない訳ではありませんが、一人のほうが、気楽なのです。


実際に多くの人とかかわりをもちながら仕事をする中で、
トラブルやうまく行かないことは、
常に身の回りに起こらざるを、そして起こさざるを得なくなります。

よく言えば柔軟に対応をし、悪く言えばうまく立ち回ることで、
それらを解決したり、回避したり、
時には丸め込み、時には自己欺瞞によって流したり。
そういうことは日常茶飯事おこなっていますし、
それが必要なのも、ある程度、理解しているつもりです。


楽しいから続け、そうして達成するタイプの人は、失敗に鈍感です。
成功者としての顔と自負を持ちながらも、
年とともに人一倍の苦労する人が多いように思います。

年がたつごとに、問題は複雑さを増し、1+1=2では済まなくなっていきます。
年がたつごとに、一人で解決できる問題は減ってゆきます。

色々なことが1年2年という時間単位ではうまく行かず、
「スキッとさわやか」に生きる時間が無くなってゆき、
そういう生活を繰り返しているうちに、
私も人生がつまらなくなっていたと感じます。


海外で自分の常識が通らない生活を10年チョイ、
常識の通らない場所で仕事を5年チョイ、
過ごしている間に、私も深みにはまってゆきました。

うまく行かないときには挑戦欲より諦観が先立ち、
他人が数値で見れば充実した仕事・生活を送っているはずなのに、
私にはそうは思えない。

どうしても避けようの無いこと、
例えば生活であるとか、例えば家族であるとか、例えば環境であるとか、
答えは無く、短時間での解決、というか「解決」自体が当てはまらない問題たち。
常に立ちふさがる文化の違い。

そういうものに向かい合ううちに、
本来私が得意であった、次々試し、次々楽しみ、次々結果を出すという、
そういうパターンを忘れてしまったのだと思います。


辛いときに手伝ってもらうのは恥ずかしく、
一言助けを求めればよいのでしょうが、どうにも自分が許さない。
てめぇで解決しようと躍起になっても暖簾に腕押し。
かわりにつまらないことで家族にあたってしまう自分が恥ずかしい。

そういえばこのブログも、
コメントをもらうともう嬉しくてたまらないのですが、
しかしコメントが欲しい様を感じさせる文章を書くのはプライドが許さず、
また、せっかくいただいても嬉しさがにじみ出るような文章は避けてしまって。

そのくせ読者が増えてほしいなぁと、ブログランキングなどに登録したり。
どうにもかっこ悪いですなぁ(笑)


そんな私だったので、釣りにはまったのでしょう。
出口がうまく見つからない生活の中、
糸と針と餌を放り込めば、小気味良い反応を返しながら釣れる魚。

小器用さも手伝って、それなりにうまく釣れ、
楽しくやってればそれで良いという、
気軽な癒し活動の一部になっていたわけです。

工夫や努力が無くても、それこそ楽しくなくたって、
糸と針と餌、放り込めば魚が釣れ、それなりに楽しめてしまう。
行為と結果の間に横たわる時間が、子供のころのように非常に短い。
それでいて、深く学ぼうとすればどこまでも深く、
広く悟ろうとすればどこまでも広い。

適当にやっても、本気でやっても、
斜に構えてやっても、しっかりと向き合っても、
きちんとその都度その都度の結果を、しかも短時間ではっきりと出してくれ、
本気でなくともある程度の褒美を与えてくれる。

なんとなくでは何も得られないこの時代に、
そんな活動は、あまりありませんよね。
釣りのすばらしさだと思います。



しかし、短気な私にとっては、根本的な問題が続いています。
1月アイルランドに戻ってから今日まで、何度行っても釣れない。
釣れなければ、つまらない。

なにしろ相手は自然です。
集団の中で生きる能力すら劣っている私に、
もっと広大な自然を相手に出来るのだろうか。いやできない。<判断が早い(笑)
私の性格も手伝って、うまくいかねぇ、やめちまおうかなと考える。


しかし色々試したかといえば、まだまだ試してないことがあるはず。
魚が釣れる感触や、釣れた魚で食べるご飯はおおいに楽しみましたが、
釣りという行為自体を楽しんだかといえば、
まだまだ楽しんでいない。

試し、楽しまなくては、結果が出ない。
連続坊主は、そんなことを、もう一度思い出させてくれました。


決意その一。
釣りを、楽しむこと。


何も知らないことの楽しみ方を忘れてしまった私は、
もういちど何も知らないことを楽しむ気持ちを、
取り戻したい。



そしてもうひとつ。
私にとって釣りがもたらす癒しとは、
どんないい加減な姿勢であっても、
きちんともらえた釣果、自然のご褒美だったということです。

恐らく、自然はもう十分に褒美をくれたのでしょう。

あのときの私にとって必要な癒しはもう十分。
癒されっぱなしじゃだめですよ。
今は以前より元気になったのだから、こんどは頑張んなさい。

そういうことのような気がします。


決意その二。
癒されながら、釣る。


見返りを求めないことをかっこいいと思ってしまった私は、
楽しく没頭したことをから得られる褒美を素直に喜ぶ気持ちを、
もっと大切にしたい。

さすがに、見返りを得られないことを当たり前と思えるほどには、達観してません(笑)



いや、釣れないのは単に季節だし。
いや、たかが釣りでおおげさすぎるし。
いや、坊主の自分に負けて変なこと口走ってるだけだし。
リア充dqn発生かも~♪

とまぁ、斜に構えることはなんぼでもできるわけですが(笑)、
受け取り方ひとつ、考え方一つで、
より良い時間、ひいては人生を過ごせるという知識を、
私は最大限生かしたい。

もっとぶっちゃけるなら、たかが趣味の釣りでそんな大げさなことを言うくらいなら、
本業で本気になるべきだという正論も結構でしょう。
まったく、えぐり込むように効く正論です。

正論ごもっともなんですが、それではつまらないんです。


逆に、うーん、こういうハッキリしないことを思考にはさむのは嫌いなんですけど、
だめなときほど、釣果もらってる気がするんですよ。
凹むに値する状況のときほど、当たるし数もあるというか・・・。

なんかそういう、思い込みみたいなものを馬鹿にするようになったせいで、
物事をつまらなく感じるようになっている気がしますし、
誰かからほめられることなどない年齢になった私にとって、
非常に正直な、それでいて暖かな何か、
要するに自然というものを、はじめて感じたような気がするのです。
そういう感覚や存在は、粗末にしてはならないものなんじゃないかしら。

一方で、理屈の外の事態には、
理屈で対応してはいけないということも海外生活で学んできましたので、
こういう、験(げん)ですとか、思い込み、ひいては運気みたいなものも、
理的に取り入れ、積極的に生かす気持ちが生まれたのだと思います。

さんざ理屈をこねた結果、生活はいまいち張りが無くなり、
物事を楽しむことを忘れ、おまけに坊主が続くとくれば、
理屈に収まらないことをやってみるしかない。

あはは。やっぱ大げさになるなぁ。文章にすると(笑)



Howthで一匹釣るまで、めいいっぱい、しかし無理せず楽しみます。

暖かくなる前に達成できるかわかりません。
しかも、そんなこと、一匹釣るなんてことが、
私にとっての区切りとなるかどうかも、わかりません。

でも、色々考えたり、変えたりすることが、出来そうな気がします。



楽しかったあのころ、その自分を思い出せ。Camera: Canon IXY DIGITAL 300a


いやぁ、釣りって、ほんっとうにいいもんですね(爆)
(わからない方はこちら>水野晴郎



楽しき坊主釣行、始まる。」へ続く。


パパ先制打

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